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チーム・メチエがいろんなことを書き綴ります


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FUN/FUN/TALK 第2回 竹下光士(たけしたみつし)

Mitsushi TAKESHITA
1965年京都府京都市に生まれ。武蔵野美術大学造形学部油絵学科卒業。
北アルプス北穂高小屋での仕事を機に絵画制作をやめ山岳写真にのめり込む。本格的に槍ヶ岳・穂高連峰を被写体に撮影を開始。その無機質な岩稜風景に日常や季節を越えた悠久の時間を感じ、撮影のテーマとする。2003年(財)草月会を退社、フリーに。現在、カメラ雑誌・アウトドア誌などに、写真や記事を提供中。京都市在住。日本山岳写真集団同人。


今回は、写真家の竹下光士さんにお話を伺いました。
竹下さんは、『天の刻(てんのとき)』(1998)、『ZEUS 神々の遊ぶ地』(1996)(いずれも青菁社)という2冊の作品集を出されていて、いずれも3,000メートル級の日本の山々に立ち、わたしたちにはなかなか触れることのできない世界をおさめられました。
最近になって竹下さんから近況をお知らせいただく一通のお手紙を頂戴しましたので、ぜひお目にかかり、いまの時代の流れの中で表現に携わるものとしてのお考えをおうかがいしたいと連絡をとってみました。

FUN/FUN/TALK 第2回 竹下光士(たけしたみつし)_c0129404_24298.jpg


FUN/FUN/TALK 第2回 竹下光士(たけしたみつし)_c0129404_22179.jpg


青菁社http://web.kyoto-inet.or.jp/org/s-s-s/

竹中○今は何を撮ってらっしゃるのですか?
竹下●紀伊半島の熊野を撮影しています。
竹中○以前から熊野詣でにぎわっていたかと思いますが、世界遺産にな ると、またいっそう人が来ますでしょう。
竹下●そうですね、最初の頃は結構来ていましたけど、今は少し落ち着 いた感じがします。
竹中○熊野ときくと、「聖地」とか「霊場」という言葉と重なって、誰 も踏み入れられない場所というある種の威圧感のようなものを発する場 をイメージしてしまうのですが。
竹下●たしかにそういう側面もありますが、コンビニもありますし、深夜まで開いてるスーパーもあって生活するには不便はないですよ(笑)。
竹中○その熊野では世界遺産とか熊野古道の自然とかを撮っているのですか?
竹下●いえ、そういう観点ではなくて、僕は熊野をこの千年くらいの間で形成された、巨大なインスタレーションと捉えているんです。つまり住んでいる人と、そこを目指す人、そして自然とが作るインスタレーションだと。住んでいる人もいるし参詣に来る人もいる、人の手が加わって残されていったりとか、あるものは整備されていったり。なにかそういう熊野という地場がもつ気配というか……。それを撮りたいなと思っているんです。しかし、全体を鳥みたいに見渡せるわけじゃないですから、部分部分を拾いながらつないでいくという作業を通して表現に結びつけていきたいと思っているんです。
竹中○じつは今、私もすごく迷っているんです。それは、自然との対話とか環境問題とかが声高に叫ばれている時代に、「いけばな」はどういうところに向かっていけばいいかということなんです。つまり社会との接点をどうもつかという。これまでは、植物は人間が表現の素材として神様が許してくれたものだという解釈で許されてきた。ところがいつのまにか、植物に対する畏敬の念を忘れて、人工的に手を加えてそして何かいじくりまわすというか、表現のために夢中になってしまう自分にふと気づくことがありました。いまはそういう呪縛から解けて、仲間とのびのびと楽しんでいますけど、やはり「いけばな」を生業としている私としては、「自分はどうしたいのか」、「自分はこれでいいのか……」という自問自答のもとに、素材を思いっきり使うことがためらわれるみたいなところがあったんです。もし自分にいっぱい自然のものが手に入ったとしても、静かにそっともとあった場所に置くだけのほうが実はいちばんいいのかなと思ったりもしました……。そういう心境から、一回使ったものを、もう一度再現できるような方法でまた新たな美しさを表現できないかとか、自然の恩恵という素材と戯れることによって、私たちの内面に訴えかけるような表現をしていこうというふうに、あるところで私の内面は変わってきた。
竹下●そうですね。たぶん、「畏怖畏敬の念」というのは自然から学ぶことだと思うんですよ。自然に生かされているという思想とか、自分が命をつないでいけているのはなにがどう関係しているのか、ということを学ぶのは竹中さんがいまおっしゃったようなことをくぐり抜けないと身につかないのでしょうね。
竹中○いま使っている植物はほとんどが、生産されたものーー温室で育てているとか、人工で栽培しているーー、つまり一方で、生産者がいて私たちは消費者なのだからいいのだ、という納得のさせ方ではなくて、変わっていかざるをえないということがあると思うんです。そこをどう表現にあるいはメチエとしての活動に結びつけていくかということが最大のテーマなんです。
竹下●そうですよね。たとえば満開の桜を撮ったり、雪景色を撮って発表すると、それを観た人は「あー、きれいだ、自然はあいかわらず大丈夫なんだ」と思われる。ところが実際は、桜の咲く時期が以前とは全然違っていたり、かつての感覚で撮りに行っても雪がない、なんていうことがあるんです。それは撮ったものとして、そう思われるのはまずいだろうという、思いはあります。だからと言って、何も撮らないというのも、やはりそれはまずいだろうと。どういう方法で今の自然を、ーー環境破壊を訴えかける映画や本のように、危険だよ駄目なんだということばかりを前面に出すのではなくてーー表現するもっと方法が、いわゆるアーティストと呼ばれる人たちに託された手法があるのではないかと。それを探していきたいと思うんです。それは、同様に花を使って、生きているものに作家が手を加えて訴えることも有益ではないかと思うんです。
竹中○それに対する姿勢はちゃんと持っていなければならないということですね。
竹下●そうですね。僕は熊野を撮るなかで昔の人は自然をどう見てたのかなと考えることがあるんです。昔の人はきれいだなって見ていたのかなって。先の畏怖畏敬の念ではないけれど、もう精神論だけでは片付かない時期まで来ていると思うんですよ。でもやはり精神論がないと駄目だと思うんです。だからその辺はあきらめずに、危ない危ないとばかり言ってても精神論は育たないんで、やはり何かものを作る人、そういう人たちが担えれば、担うべきなのかなという気がするんです。
竹中○そうですね。言い換えれば、それは使命ですね、人間が生きていくための使命ですね。

竹中麗湖&チーム・メチエ www.t-metier.com

by t-metier | 2007-11-23 21:23 | Fun Fun Talk